依存症・共依存症

「共依存症」の5つの中核症状

  1)「自己愛の障害」
    自己評価が低い
  2)「自己保護の障害」
    自分と他者の境界が設定できずに、他者に介入したり、他者の介入を許    したりする
  3)「自己同一化の障害」
    自分に関する現実を適切に認識することが困難である
  4)「自己ケアの障害」
    自分の欲求を適切に他者に伝えられない
  5)「自己表現の障害」
    今、自分におこっている現実(年齢や状況)にそって振舞えない 


共依存症」とは、人間関係そのものに依存する「依存症(嗜癖)」です。
 「共依存症」は、自分自身を大切にしたり、自分自身の問題に向き合うよりも、
身近な他人(配偶者、親族、恋人、友人)の問題ばかりに気を向けて、
その問題の後始末に夢中になります。

身近な他人の取らなかった責任を一生懸命代わりにとり、
結果、現在の困った状況を、身近な他人本人が決意して解決する機会を与えず、
困った状況をそのまま続けるはめになる。
あるいは、ますます困った状況に陥っていく人達のことです。

 身近な他人は、大きな問題である、
アルコール依存症、ギャンブル依存症、非行、暴力、買い物中毒、仕事中毒、
絶えない人間関係のトラブルなどを抱えているため、
「共依存症」本人の問題がクローズ・アップされることは滅多にありません。
 共依存症の人はそういった見た目に派手な依存症や問題を抱えている人達の側に、
かならずといっていいほどいると言われています。

共依存症の人が、問題の後始末を一生懸命してくれるので、
身近な他人は、
「困った状況」がおきても「なんだかんだ言ってもなんとかなる」と無意識で感じています。
このため問題を解決せずにほったらかしにし、悪化させます。
この現象を指して、共依存症の人のことを
「依存症の支え手(イネイブラー)」と呼ぶこともあります。

 ここで誤解しないでいただきたいのは、
身近な他人が何かの依存症にはまっているのは、その本人に問題があるからです。

問題のない人は、依存症にはまりません。
共依存症の人と、他の依存症の人が一緒にいると、
2人とも依存症がエスカレートしやすくなりますが、
共依存症の人が、側にいなくても、他の依存症の人は依存症にハマっています。
「私が共依存症だから、相手がパチンコ依存症なんじゃないか」というのは
ハッキリと間違いです。

 共依存症の人が側にいなければ、
他の依存症の人のエスカレートはゆるやかになるケースが多いと言われています。
それと同じように、他の依存症の人者が側にいなければ、
共依存症の人のエスカレートもゆるやかになります。

 立場は同等であり、とちらにも同じように問題があります。
どちらが悪いという話しではないことをご理解下さい。

 日本女性はとくに「我慢して尽くすこと」が美徳だとされているので、
共依存症の人が多いといわれています。
ある程度までは「人間関係の潤滑油」ですが、
共依存症の人にとってその人生は
他人の後始末、後始末、後始末……
他人の責任の代行ばかりで自分のための人生を生きることができません。
共依存症の人は、自分自身の人生もみじめですが、
周囲の人生もみじめなままになってしまいます。

 

共依存症者は、自らを犠牲にして他人を助けたり、世話したりする
自分が、他人にとって必要とされたり、ありがたがられるなどの報酬を無意識に期待している。
目先の愛情にとらわれて他人の世話をするが、
大きな目で見ると他人や自分を破滅に導いていることに気がつかない。
不良息子や飲んだくれ亭主に必死に働いてお金をあげたり、本人達の不始末を代わりに謝る。

 

共依存症者は、他人の行動、感情、考え方・状況・結果を変えようとコントロールする
他人の行動の責任はとるが、自分の行動がどのような結果を招いているかは考えない。
他人に文句を言ったり、他人がどうするべきかを考えるが、自分がどうすれば良いかを考えない。

 

共依存症者は、何か身の回りに問題や危機が起こっていないと空虚になる
問題のある人や場所に惹かれやすく、不安定な生活を送りやすい
いざ安定した自分中心の生活と、不安定な他人中心の生活の選択をせまられると、
「私がいないとあの人は……」「金銭的に無理」などといろいろ理由を並べて、
熱中できる問題がたくさんある、不安定な他人中心の生活を選ぶ。

 

共依存症者は、依存心が強く、一人でやっていけるという自信がない
自尊心・自己評価が低く、自分自身が好きではない。
一人で過ごしているとひどい虚無感に襲われて、
自分を必要としてくれる人を常にもとめ、「見捨てられる危機感」を振り切れない。

 

共依存症者は、考え方、視野がせまい。社会・地域・自然などへの関心・貢献が薄い
特定の他人の問題で頭がいっぱいで、友人からも離れ、小さく狭い世界で生活する。
このため、自分と自分の周囲の狭い範囲の人達が、どんな悲惨な状況なのか気がつかない。

 

共依存症者は、現実をしっかり見つめようとしない
他人の目や意見を気にして、あるいは自分の本当の気持ちをごまかすために、
真実を隠して表面は何でもないように振舞う。
悪い面をできるだけ小さく考えようとして、そう表現する。

 

共依存症者は、「No」と言えない。「私」を中心に話せない
コミュニケーションの技術に欠け、「自分の」必要なもの、欲しいものを
はっきり要求することができない。
「いいえ、できません」とはっきり断わることができない。
他人の問題や他人の愚痴ばかり話し、
「私は」こう感じてこう考えるというように自分自身を「主」にできない。
悪い面をできるだけ小さく考えようとして、そう表現する。

 

共依存症者は、コミュニケーションの技術に欠け、必要なもの欲しいものを要求できない
「いいえ、できません」とはっきり断わることができない。
他人の問題や他人の愚痴ばかり話し、「私は」こう感じてこう考えるというように、
自分自身を「主」にできない。

 

共依存症者は、他人とのバウンダリー(境界)がはっきりしていない
他人の問題にお節介にも入り込んでしまったり、他人の落ち込むのを見ると、
自分も滅入ってしまったり、または人の気分を変えようと必死になったりする。
自分と他人は考え方も感じ方も感情も違う個別の人間であるという自覚が、実はない。

 

共依存症者は、自分の身体から出るメッセージに気がつかず、
感情の適切な表現ができない

繊細な感情がマヒしてしまっているので、感情の適切な表現ができずに、
何だか変だなと思うときに胸がドキドキしても、それに注目せず無視してしまい、
行動を変えることなく、同じ間違いを何度も繰り返したりする。

 

共依存症者は、怒りの問題がある
自分よりも他人のために行動しているのに報われないとなると、
怒りや恨みがたまってくるのは当たり前のことだが、
自分自身でそ、の怒りを否定しているために、適切な怒りの表現ができない。
急に爆発させたり、八つ当たりしたり、あるいは怒りを相手への「恐怖」にすりかえて、
怒りを感じないようにすることがある。

 

共依存症者は、忍耐強く、静かに時を待つ、ということを知らない
今すぐ良い結果が出ないと気がすまず、せかせか動き回ったり余計な心配に気をもむ。
他人の行動を長い目で見守ることができず、自分が今すぐコントロールしようとする。
しなければならないことで頭がいっぱいになり、様子をみるということができない。

 

共依存症者は、罪の意識によくおそわれる
相手に問題があるのは、自分が何か悪い事をしたかのように思い込み、
自分がもう少し努力すれば、
また自分の欠点を直せば相手が良くなるだろう、変わるだろうと必死になる。
疲れて相手から離れようと考えると
「私がいなければあの人はどうなる」「子どもがかわいそうだ」などとひどい罪の意識に囚われる。

 

共依存症者は、物事が極端。ほどほどに、ができない
黒か白かがはっきりしすぎたり、自分が正しくて他人がまったく間違っているとか、
または反対に全部自分のせいだと思い込んでしまう。
いったん何かをやりだすと限度を知らず、または物事を1つも完成させることができずに、
途中ですべて投げ出してしまう。

 

共依存症者は、過去の間違いから学ぶことができない
相手が問題を起こすと、すぐ怒ったり嘆いたりするが、
逆に少し調子がいいと、
苦しかったことを忘れて相手を「可哀想な人だから」と弁護したり
本当はとても良い人だと思ってすぐ許してしまう。
調子が悪いと離れて、調子が良いときは楽しいことばかり思いだして
苦い経験を忘れてしまうので、ふたたび同じ過ちを繰り返す。

 

共依存症者は、被害者意識にとりつかれている
相手を救おうとあがき、上手くいかないと相手を責める。
それもうまくいかないと、相手のせいで自分はこんなにみじめだと被害者意識にとりつかれる。
被害者の役割を演じ、
相手のせいにしていれば自分の選択と行動の結果の責任を取らなくていいという錯覚に陥る。

 

共依存症者は、自分自分のまわりに害があるのに波風を立てないように四苦八苦する
小さいときから家族で調停役をやってきたせいでもつ、
何があっても和平を保とうと異常な努力をする傾向。
葛藤をさけて、なにも起こらないようにと必死になりますが、結局問題は起こりつづけます。

 

共依存症者は、愛情としがみつきを取り違える
共依存の人は相手を愛するということと、しがみつきとの違いがわからない。
どんなに相手に虐げられても、ひどい目にあっても、
心理的、または身体的に離れられずいっしょにいたいと思う気持ちは「しがみつき」。
そんな人に、胸がドキドキするのは、相手の心の機能不全さと、
自分の心の機能不全さとがマッチして共鳴しているだけ。
相手から必要とされていることや、ジェラシーがあったり、
コントロールされていることと、愛されていることは違います。
それは、愛のトキメキではない。

「愛情」は、相手の人間としての成長を最大限に伸ばすよう支援し、
しかも、自分を失わず、自分もよりよい人間になること。
もし、自分が一緒にいることが、相手の人間性のさまたげになるようだったら、
相手を離してあげることが、本当の愛情です。

 

共依存症者は、権威者を恐れる
子どものころ、怖い人がいる家庭で育った人は、
地位のある人、権威のある人、怖そうな人、
たとえば、先生、上司、警察官、役人、怒鳴る人、
男性などの前に出ると、萎縮して、理由もなくビクビク、オドオドしてしまう。
いつも、相手から批判されるのではないか、認められないのではないか、
拒否されるのではないかという不安がつきまとう。

 

共依存症者は、理想郷、ファンタジー(空想)、社会のおきてにとらわれる
「あの人はお酒をあんなに飲むべきではない」「子どもは親に恩返しをするのが当然」
「女だから家にいて世話をするのが普通だ」などの「〜ねばならない」という、
建前的な理想論、道徳論や
「私の愛があれば相手ははかわるだろう」「いつか彼はわかってくれるはず」という
ファンタジーにとらわれたり
「社会はこういうもんだから」「みんながああ言うから」と、
社会やまわりのルール(義務、責任)にとらわれる。

 

共依存症者は、相手の気分を敏感に察して、先へ先へと頭を働かせる
相手をつねに喜ばせようとしたり、いつ相手が爆発するのかと、相手の顔色をうかがって、
すばやく相手のムードを読みとり、
先回りして、つぎにどうしたらいいのかと気を利かせる。
相手の気分を中心にして、これから先に何が起こるのかと考えをめぐらし、
いつも心配しているため、結果的に、いま現在起こっていることがつかめなくなる

 

共依存症者は、ウソをつかなくてもよいときにウソをつく
子どものころから、家族にいろいろな秘密があったり、
両親が家の外へは体裁をつくろってウソをついているのを見てそだったり、
自分もそのウソに参加させられたりして育つと、
つい、つく必要のないときに、悪気のないウソをつく習慣がついてしまう。
さらに、問題のあるような人と一緒になって、
相手をかばったり、その場をつくろったりして、真実を隠す。

 

共依存症者は、自己の確立ができていない
自分に自信がないので、他人に幸せにしてもらおうと思っていたり、
自分の人生の目的や自分はいったい誰なのかがはっきりせず、自分を大切にできない。
すべての共依存の問題は、ここから始まっていると思われる。